南三陸町防災対策庁舎
2025.05.25

いつもお世話になっております。
上田建築工房の上田です。
さて、本日は南三陸町防災対策庁舎を訪れたお話を書こうと思います。
現在は「南三陸町震災復興祈念公園」となっている南三陸町防災対策庁舎で起きた出来事を知ったのは、今から10年前に愛知県で開催された経営者団体の全国大会に参加したことがきっかけでした。
全国大会に参加する以前、東日本大震災から1年後の2012年に、当時の社員とともに被災地を巡る視察へと向かいました。
仙台空港から外に出た瞬間に感じた、あの張り詰めた空気と悲壮感は、今でも忘れることができません。
目の前に広がっていたのは、潰れた数百台の車が積み上げられた無残な風景。
岡山で変わらぬ日常を送っていた私にとって、それは想像をはるかに超える現実でした。
街並みはまるで戦後の焼け野原のようで、その光景は今も脳裏に焼き付いて離れません。
現在、上田建築工房の制服の後ろには『すべてに感謝の心』という言葉がプリントされています。 この言葉は気仙沼の復興屋台村で出会った言葉です。 その言葉を胸に、災害に負けない心を紡いで、今の私たちがあります。
愛知県で開催された経営者団体の全国大会では、南三陸町で鮮魚店を経営している山内氏の報告を聞きました。
震災から1年後に被災地を視察した時の記憶が頭から離れずにいた頃。
そんな中で、まさに復興の真っただ中にある現地からの報告があると知り
これは偶然ではなく、天の計らいなのではないか、「これは自分の使命だ」と感じ、名古屋へ足を運ぶことを決意しました。
山内氏と宮城大学の教授による報告の中で、今でも忘れられない話があります。 それは、地域の未来をつくるために、いち早く立ち上がって活動していた最中に、
「こんなにみんなが苦しんでいる時に金儲けかぁ‼」と心無い言葉を浴びせられたというエピソードです。
誰もが辛く、苦しい中で、悲しみに暮れることは誰にでもできる。
けれども、そんな時だからこそ、真の経営者がやるべきことは「負けない心」だという想いのもと、次の世代に災害に屈しない心を伝えるため、仲間とともに地域のために動いてきたと、力強く語っておられました。
この話を受けて、私は「上田建築工房には何ができるだろうか?」と問い続けました。 そして辿り着いた答えが、上田建築工房は「職人を育てる」、「地域を守る」、「未来をつくる」、「未来の担い手をつくる」ことを心に決め、今に至ります。
私も山内氏のような経営者になれるよう頑張ります。
その数年後のNHKのニュースで放送されていたのが、南三陸町防災対策庁舎でした。
2011年9月20日にこの建屋で助かった町長が「辛い記憶が残る」という意見を汲み、建屋を残すことを諦めたと報道されていました。 実はその後に長い時間、話合いが続き、現在は県の管理のもとに保存されています。
そのNEWSを観た時に、遠藤未希さん(24歳)の存在を知りました。
町職員だった遠藤未希さんは「津波から逃げて下さい」と、ギリギリになるまで防災無線で非難を呼び掛けていました。
遠藤さんは、最後まで非難を伝えていたところを津波に襲われ、帰らぬ人となりました。 遠藤さんのお父様は、「未来に希望が持てるように」と思いを込めて、“未希”と名付けたそうです。 町職員の素晴らしい行動が、沢山の命を救ったこと。
私はこの出来事を、多くの方に知っていただきたく、ここに記録として残します。
そして、あらためて庁舎をGoogleマップで調べた時、すぐそばに「山内鮮魚店」の名前を見つけたのです。
「何としてもこの場所に、皆と行かなければ」という思いで計画し、無理を言って、訪問させていただきました。

山内氏との会話の中で、「14年で良くここまで復興しましたね」と伝えると、涙を流していました。私も胸に込み上げてくる思いをこらえながら、社員と話を聞き入りました。
本当に伺うことができて、ただただ感謝の気持ちでいっぱいです。 これまで私達が想像もできないような苦しい事、辛い想いがあったでしょう。 それでもいつも笑顔の絶えない山内さん。
その心には「絶対に復興してみせる」、その強い想いが現在をつくったのだと皆と学ぶことができました。
これからのさらなる東北の発展を祈り、御礼申し上げます。 誠に有難うございました。

すべてに感謝